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2013年ホスピス研修講座第3回   2014年1月26日(日)

 命を綴じる時期(とき)
   ~こうして触たら悔いはない~
       石飛 幸三 (特別養護老人ホーム・芦花ホーム医師)

1.はじめに
 私は4年前に『平穏死のすすめ』という本を書き、多くの反響をいただきました。そして、約400回の講演をさせていただき、一昨年喜寿を迎えました。今日もこれだけ沢山の方々が来ていただけたのは、皆がこの問題を他人ごとではなく切実な自分の問題としてとらえてきている証しだと思うのです。
 厚労省は、年取った人の人口がふくらみ、若い人のところが少ないという統計表をよく見せてくれます。誰が年寄りの面倒を見るのかとか、社会全体が大変な事になると云う。それじゃあ、歳を取っても先端医療により部品調達をしっかりやらせて、元気に働くような人を増やせば、もう少し世の中を明るく生きで希望のあるような話になることを考えています。
 最初の映像は、東京都世田谷区がやっています区立芦花ホームの4階のベランダ、平均90歳の方々が100人いる特別養護老人ホームです。
 西の方を眺めると、12月の終り、空気が澄んでいて丹沢の山なみの向こうの方、富士山に夕陽が沈みます。夕陽を拝むと、誰しも先に逝った親のことを思います。
 世界一の高齢社会です。入所検討委員会も、今まで月1回で済んでいたものが、昨年の後半頃から月2回やっても間に合わなくなっています。在宅診療をやっている訪問医師や訪問看護師からも同様のことを聞いています。高齢者が増え順番が来て亡くなられる方が増えていることは事実であります。

2.延命治療の権化だった
 病院にいて、最期を管だらけで、というのは誰も望まない、という空気は大部前から出ていました。しかし、中々踏み切れなくて、もう一度痛院で何とかできないかといって、救急車を呼び、結局2~3日病院へ死にに行っているような状況は、まだまだ続いています。
 運ぶ救急車の東京都の救急隊員の方たちと先日話をさせてもらいました。同じ人間ですから、社会的使命を果たしたいと思うだけに、救急隊としてこれが本当に役立つことか、と正直に思うことがあるそうです。皆で考えなければならない事があるわけですが、延命治療法が次々に発達しています。最近は、iPS細胞、染色体操作等。いま、平均年齢80歳位から実はもっと延びる可能性があると思うのです。
 CTスキャンが開発された時、私は済生会中央病院の外科にも内科にもぜひ入れたいと希望しました。しかし、相当の出費になるので、どうしても入れなければならないか迷いましたけれど、今やCT、MRI等、常識になってきました。技術の進歩については、それが本当に我々人間が生きていく上で、生物体としての生命の維持にちゃんと役に立つならば、それは画期的なことですし、役に立つ状態で発展していくでしょう。そうしますと、平均年齢100歳に近い時代も意外に起きるかもしれません。
 定年60を65歳にしようとする時代など生ぬるい。85歳位までピンシャン元気でいる人がいるなら、せいぜい働いてもらおうじゃないか。知恵もあるし、ピンピンコロりと逝ってもらえばいいのですから(笑)。いろいろなことが考えられます。そういうことを柔軟に考えながら、それが人間の為になるなら、大いにやりましょう。やっておかなかったら、本人のためじゃなくて、関係者が自分たちが何か格好悪いとか、世間体がどうだとか、そんなことで方法を押し付けるようなことだけはしてはいけない。押し付けは間違い。問題はそこのところです。そんな迷い路に今まで入っていたのです。
 私なんか、半世紀外科医として、最後は33年間済生会中央病院で、延命治療の権化でした。別にそれが、私は罪だとは思っていません。人生途上の病気というピンチに立たされて、それが手術という方法でしか、そのトンネルを切り抜けることが出来ないという場合、少々のリスクがあっても、一緒に闘いましょうと病気と闘ってきました。しかし、その先で、自然の摂理は、いずれ来ます。そこのところで、一番判断できるのも医者であるし、そして、責任を持って判断しなければならないのも、本人が認知症の場合は家族であります。そういう関係者が、本人のためにはどうしてやるのが一番いいのか。方法が悪いわけじゃない。意味のある方法を意味のあるようにどう使うか。そういう判断をしなくてはならない。それが今一番問題です。
 なぜ、そんなことを言うかというと、4年前に『平穏死のすすめ』で、胃瘻(いろう)のことを問題にしました。いずれ、我々は自分の口で食べられなくなります。食べたくなくなるというか、食べる必要がなくなる。その時、法律は、人が食べられないのなら、内視鏡を使って、胃に穴をあけてプラスチックのキットをはめ込んで、3センチ足らずの穴を臍の上に開けて管をはめておけば、給食のように経管栄養剤を胃の中に入れられるのだから、口で食べられなくても、水分・栄養剤を入れられるのだから、胃瘻を付けないことは、餓死させることになる、付けるのが当たり前だということで、10年前位から急速に使われたのです。
 自然の摂理で、体が食べられないのに、装置を付けたのです。それはおかしい、とみんなが思い出して、それは止めたいという方向に向かってきたら、胃瘻を付けたら今度は虐待だと言う人まで出てきたのです。胃瘻を付けて、元気になってまた食べられるようになるならいいじゃないですか。方法そのものが悪いわけではないはずです。

3.認知症の「かけこみ寺」
 我々はもっと本質的な事を問題にしなくてはならない。芦花ホームでは、平均年齢90歳、認知症9割、そこまで生きられるのは圧倒的に女性が多い。現在の核家族化した家庭の実情を反映しています。
 家庭で認知症の母親を一晩中娘さんが看病して、次の日に働きに行くなんてことは無理ですよね。結局、認知症の介護施設のかけこみ寺が、日本に1万以上ある特別養護老人ホームの実態です。芦花ホームもこの一つです。お一人として元気になって坂を戻って行く人を見たことがありません。確実に、皆さん坂を下って行きます。
 厚労省の自立支援策もよいでしょうが、家族の方は、しっかり食べさせてもらって、お父さん元気になって戻ってもらいたい、1日でも長く生きてもらいたい、それが願いです。
 お父さんの実態はどういうことなのか。芦花ホームに預けたら、誤嚥させられた、病院へ送られたけれども間に合わなかった、自分の家で見ていればそんなことにはならなかったのではないか。ついそう思いたくなるのはわかるけれども、本当は違うのではないか。
 よく考えてみてください。もう坂を下っているのです。預けていなかったら、もっと早くそういうことになったかもしれないのです。しっかり現実を踏まえて判断しなくてはなりません。高齢で人生の最終章の方への対応で、一番大事なスタンスです。
 ほとんどの方が認知症で、夢の中です。不安定です。ちょっとつまずいただけのはずなのに、尻もちを付いただけのはずなのに、足の付け根が腫れてきて、レントゲンで見ると大腿骨骨折。平均年齢90歳の女性の方の骨は、もう役目を終えています。男性ホルモンが少なく、自分の体重を支える生活が出来なくなって、紙のように薄くなっている。拘縮した手足を、介護の方たちが優しく注意しつつそーっと、体位変換をしたはずなのに、足の付け根が腫れてくることもあるのです。
 そして、誤嚥性肺炎は、本当に苦しいものです。介護職員の話しでは、下(しも)の始末などよりも、食べてもらうこと、摂食介助くらい難しいものはない、と言います。家族の方々の思いを背に受けて、一口でも多く食べてもらいたい。そのあと一口が、仇になって誤噂させることがある。介護の人たちが、しまったと思い、まず自分を責めるんだそうです。施設の上司から何を言われるかを気にすること等は二の次だそうです。やさしい気持の人たちなのです。そういう人たちでないと中々この世界は勤まりません。

4.特別養護老人ホーム・芦花ホーム
 病院は戦場でした。芦花ホームは、皆が入所者のためにどうしてあげるべきか、真剣に考えてやっているところでした。入所者が人生の最終章を穏やかに送るべき所でした。しかし私が赴任した頃は、1,500キロカロリーを入れなければいけない、というノルマがあった。どこから出た指令でしょうか。厚労省は、言った覚えはないと、言っていますが。
 介護士は、夕食の後、看護師から、今日は1,000キロカロリーしか食べさせていないのじゃないの、と言われた。夜9時過ぎていたが、その方はまだ起きていたので、冷蔵庫からゼリー食を持って行って、食べさせてやった。そのあともう一口が仇になって、それがもとで、誤嚥性肺炎になっている。誤嚥は苦しいから、救急車で病院へ送ります。本人は認知症ですから、何故、急にこんなところへ連れてこられて、救急外来でいきなり痛い針を刺されて、点滴を始められる。いやだから針を抜こうとすれば、押さえ付けられ、本人はパニック状態です。病院は、肺炎は治せるかもしれないけれど、衰えた反射をもとへ戻すことは出来ない。
 15分間で、内視鏡を使って、胃の中から操作してお臍の上に局所麻酔、小さな切開を加えてプラスチックのキットをはめ込めば肺炎は治ったし、繋いでおけば栄養剤を入れられるように出来たんだから、もう芦花ホームへ帰ってください、と言われる。こうして、芦花ホームは、せっせと食べさせようとして「肺炎製造工場」。救急車に乗せて病院へ連れて行くと、病院は「胃瘻製造工場」となって帰って来る(笑)。医者がまた、ちゃんとオーダーを1日1,500キロカロリーと書きますから、看護師さんは朝昼晩、決った量を時間が来れば持ってきて繋ぎます。
 もう求めない体だから、誤嚥もしたのに、胃瘻の人こそ誤嚥性肺炎を起こすのです。3年間で5回も病院と芦花ホームを行き来する人が数人いるのを見ました。俺たちは「えらいことをやっている」のではないかと思い、皆で話し合いを始めました。
 その頃は職員も家族もお互いに本音で話しをしていなくて、体裁で事を済ませていた。日本一の特養・芦花ホームなのに、預けておいたら、骨折させられた、誤嚥させられた等と当初からトラブル続きでした。施設側はびくびくして、ちょっと熱が出ただけでも、すぐに救急車を呼んで病院へ送っていました。

5.誤嚥性肺炎という難問
 私が行った時の芦花ホーム、胃瘻を付けた人が16名いました。みんな口もきけなく、寝返りもうてなくて、そうゆう人の合併症が誤嚥性肺炎というのは、矛盾した話です。
 誤嚥性肺炎を防ぐために胃瘻を付けたはずだったのです。私たちは、自分の好きな時に好きなものを食べて、食べたくない時は食べないで、自分の食欲をコントロールしてきたのです。管を繋いでおいて、入るだけ入れるという事にされたわけです。食道は通っています。腎の中に入れておけばいい、というのは浅はかな考えです。体が受付けなければ、十二指腸は逆蠕動します。膵液や胃液という恐ろしい化学物質が、付録が付いて上にあがって来るから、のどの機能は低下しているので、ひとたまりもない。だから、胃瘻の人が普通の人以上に誤嚥性肺炎になる。私が部屋に入ってみたら、その胃瘻の人が、入れた経管栄養剤は口からあふれて枕に流れて、窒息死しているのを見て、俺たちはとんでもないことをしているのだと思いました。
 そもそも、我々が口で食べて味わってこその食であります。その食べる楽しみを奪われて、先に入れた栄養剤で胸が一杯になっていたのに、時間が来たからというので次のものを持ってこられて、止めてくれと言えないようなことにされている。老いて衰えてくると、どこかでオーバーします。もどさないで体が吸収したら、今度は心臓がアップアップです。痰も増加します。
 さすがに、皆で、おかしい、これでよいのかと思いました。そこで、敬老の日に百歳のお祝いをした後3時から、家族の人と職員で勉強会を始めました。「口から食べられなくなったら、どうしますか」いずれ来る状況を今からしっかり考えて、腹を決めておきましょう、という事で始めた勉強会。やってよかったです。家族の中からちゃんと声が出ました。

6.生きていく力があるなら
 アルツハイマー病のお母さんを預けていた三宅島の息子さんが、5年過ぎて島へ帰って働いていたところ、お母さんが誤嚥して病院へ運ばれた。病院の先生は、口から食べるのは無理だと判定して三宅島の息子さんへ電話した。「お母さんは胃瘻を付けるしかない」と。息子さんは言った「先生有難うございます。三宅島ではそんなことはしません。年とったら、水だけそばに置いておきます。生きていく力があるなら、手を伸ばして水だけでも2か月生きます。胃瘻は止めてください。」
 その息子さんは、日曜日に船に乗って来て、鼻から管を入れられて、経管栄養剤を入れられているお母さんの姿を見て、私の前で泣いたのです。それが、我々の目を覚まさせました。
 そして、3年前に、お母さんが亡くなられて、私と職員が墓参りに三宅島へ行きました。その時の状況をおさめたDVDがありますので、見てください。(DVD視聴)
 簡単な、ものすごく単純な当たり前のことを気付かせてくれました。食べさせないから死ぬんじゃないないんだ。もう限界に来たから食べられないんだ。もう欲しくないんだ。本人のためたはどうしてやるのがいいのか。そこをちゃんと我々は考えなければいけない。この息子さんは、当たり前のことを気付かせてくれました。

7.家族と施設職員の連携
 本当に家族とわれわれ職員が目指すところは、何の違いもないはずです。ご本人の最期を如何に支えてあげるか。双方の目標は一緒のはずです。預けておいたら、骨折させられた、肺炎にさせられた、というようなことが言われる。そうじゃなくて、そういう人だから、どうしてやるのが我々の使命か考え、ご家族の望むところと違いはないのだから、とにかく一緒にちゃんとやろうとしたのです。
 病院で胃瘻を付けて帰ってきた方がいました。それは、ご家族も迷った末に付けてきただろう。その家族のためにも、ご本人のためにも、体のことが一番よく分っている看護師や医師が、ちゃんと体の状態を見て、本人が受け入れられる安全な範囲の経管栄養剤を入れるようにした。そして、口で食べないと唾液が出なくなり口内が乾き細菌が増えますから、歯科衛生士が指導して、口腔ケアをする。経管栄養の量は、実際には、医師の指示に従い看護師がコントロールしています。
 この方の場合、経管栄養の量は、800キロカロリーはもう無理なのです。夜間の吸引の回数も増えています。「先生、600キロカロリーに減らしましょう」と相談があり、私はそれに応じて判断し伝票を書くのです。これらが誤嚥させて救急車に乗せる回数が、俄然減った理由です。
 このグラフを見てください。私が行った平成17年、それまでは肺炎で亡くなる青い柱ばかりだったが、段々自然な最期を迎えて下さる自然死の赤い柱が増えてきました。救急車の出動が殆んどなくなりました。誤嚥性肺炎が主な理由だったことがわかりました。病院へ死に行く必要がなくなり、芦花ホームで看取り、ホームで最期を迎えられる赤い柱にとって代わりました。
 胃瘻を付ければ、まだ生きて行けるかもしれない。家族は悩みます。単純な話ではありません。胃瘻を付けるかどうか、これが本当に本人のためになるのか。そこが大きな問題です。

8.認知症と自然の摂理
 私たちは、認知症や年を取るという事を、もっとお互いに大事にしなくてはいけません。
 全国の特別養護老人ホームから3,000施設を無作為に抽出して、そこで胃瘻を付けている方がどういう方々か、3年前に調査が行われました(全国老人福祉施設協議会)。
 要介護度5の方が8割近い、4が2割、4と5でほとんどです。そういう人が胃瘻を付けられている実態です。胃瘻を付けたら元気になって食べられるようになったら結構な事です。そういう意味があるなら、やればいいのです。ただ、もう口もきけない、もういいから、とも言えない人にも、機械的に経管栄養を入れている実態があることを、我々は考えなくてはいけないと思う。だいたい、そういう人は、平均3年くらい生きるそうです。3年間で医療保険料・介護保険料、合わせて1,500万円(1年平均500万円)。日本全体で売れた医療キット数から類推して約30万人いるそうです。年間で延べ1兆5,000億円になります。役に立つなら大いに使えばよいのです。問題はそこにあります。
 刑法219条、保護費任者遺棄致死罪、命を伸ばす方法があるならば、やらなければならないと規定している。この刑法は、明治時代、富国強兵の時代、結核で若い人が倒れる時代、そういう時代背景の中で作られた。今のこの長寿社会でどうなのか。
 命を伸ばす方法があるのに、それをしないのは不作為の殺人だなんて、本気で言う弁護士さんがいますから難しい。殺人というのは、自然の摂理に先立って、他人の生命を断絶すること、という刑法の解釈上の条文があります。自然の死期が来ているのに、方法があれば、それが役に立たなくても、とにかくやらなければならない、というのはそれでいいのでしょうか。その辺はちゃんと皆で議論すべきです。
 K病院事件でも裁判官から重要な指摘がなされています。本来行われるべき治療が行われない時には間題になります。無価値な治療は行う義務はないと治療義務の限界に言及しています。ですから、こういう時代には、弁護士とも相談して、ほぼ自然の摂理に従い、方法があってもそれをしないことの方が、むしろ本人が平穏な最期を迎えられるなら、それが貢められないということがあってもいいだろう。ぜひ、国民的議論のきっかけにしたいという事で、「平穏死」という言葉を作ったわけです。

9.一人一人の生き方、K夫人の場合
 医学は、とにかく死なせないように今までやってきました。最後まで治療し続けることしか、医学部で教えてもらってきませんでした。この時代、医者にはもう一つ大事な役割があります。もうこの人には、静かに最期を迎えるべきかどうかが一番わかるのが医者であります。弁護士でも裁判官でも、また警察官でもありません。
 生き方です。実に一番考えなければならないのは、我々一人一人です。
 大切なのは、死の瞬間だけではない。死に至る看取りは、芦花ホームへの入所の時から始まっている。入所者がどう生きたか、家族とどう関わってきたか、それが最後に結実するのです。
 Jさんはタクシーの運転手、94歳 20年前にアルツハイマー病とわかって、芦花ホームへ入所。運転手のせいか、なかなかじっとしていない。施設ではよく徘徊してしまうことで知られていた人。20年の歳日は確実にこの人の力を奪っていきました。一昨年、とうとう奥様が呼ばれて、「ご主人は口から食べることは無埋です」と病院から伝えられた。
 奥様は「いや、胃瘻はやめてください」と言ったが、医師からは「保護貢任者遺棄致死になりますよ」と言われていた。奥様は困って相談に来たのですが、横で聞いていた介護士が、「ご主人を病院から連れて帰っておいでよ。慣れている私たちが食べさせたら食べるかもしれない。それでも食べなかったら、もう寿命でしょう」などと、医師である私より腹の座ったことを言います。奥さんは、弁護士さんもそう言ってくれるので連れて帰りたいというと、病院の医師は餓死させることになるのでダメだと言う。それじゃと、こちらはホームの医師・看護師・介護主任・相談員と奥さんの5人で行き、主治医と病棟主任さんと話した次第。
 ご主人の聞こえる方の耳に口を近づけて「Jさん食べたいかい?」と聞くと、本人が「食べたい」と答えました。5人がそれを聞いたのです。そんなことから、主治医の方で返しますよという事で、3日後にホームへ帰ってきました。
 大きな中心静脈栄養のバッグを付けたままです。1日分のバッグですから、次の日の夕方は全部空になってしまいました。何も流れないチューブが心臓の横にあると敗血症になりますから、管は皮膚に糸で縫い付けてあるだけですから、糸をハサミで切って糸を抜いてしまいました。Jさんしっかり食べてくれよ、心の中で願っていました。
 2日、3日たち、妙に静かで誰も何も言わない。本当は気が気ではありません。3日目の夕方「先生、ダメだよ、全然食べようとしないj。ところが、4日目の朝、腹がへったのです。奥様が言うにはご主人は、うな重が好きとのことで、かば焼きを注文し、介護士が包丁で細かく切って、美味しそうなうな重の写真も付けて、その気にさせようとしました。食べさせる時は、スプーンでよくほぐして食べさせると喜んで食べてくれ、元気になりました。
 日にちを数えて、今日はちょうど1か月だという日、写真機を持っていって、看護主任・介護主任など一緒に並び、本人は舌を出していますが「カラスが鳴くから帰ろ」と歌っていたのです。その横に歯科衛生士や他の職員もいます。その時、私は皆の前で、病院の先生へ携帯電話をかけて、「Jさんはうな重を食べて元気です、カラスの歌を歌い、今日は退院して1か月になりました」と報告すると、「そうですか、いやー有難うございます、本当に勉強させてもらいました」と言って心から喜んでくれたのです。みんな幸せでした。
 しかし、2か月後には、眠って眠って、1週間目位に奥さんが「もうそろそろですかね?」と言うので、廊下の横へ手を引っ張って行って「耳は最後まで聞こえるっていうから」と注意し、「俺もそう思うよ」と言ったのでした。何時死ぬかはすべて神様か決めて下さることです。
 それから、すべてが終わって、何か月もしてから、その時の模様を記録したDVDが取ってあるというのです。今日の講演の最後に、このDVDを持って行って皆様に見ていただくように持たされてきましたので、ご覧下さい。(DVD視聴)
 年寄りがしっかりしなくてはいけないと思う。年をとったら死ねるんですよね。当たり前のことです。少々認知症があっても、ふらついていても、いいんです。日本にはそれを支える文化があります。皆で世界に日本を示したいと思います。
 DVDの中で、「テントウムシノサンバ」をやっていた連中は、東北の民話でいう座敷わらしだと思う。わらしとは、「童」という字を書く、子どもです。お化けだそうです。それが住み着いて旅館は大繁盛するのだそうです。そういう文化を、これからの若い人たちが、ちゃんと見本を示してくれたのです。
 ご清聴、ありがとうございました。